日常は気付きの宝箱

徒然なるままに、書きたいことを書いています。将棋・読書・アニメなどなど。

句読点の使い方

今日は少し学術的な話をしようと思います。

 

私は、変なところで日本語に気を使うので、誤用されている日本語が気になって仕方ないです。

 

例えば、

「幸先が悪い」

という表現。

 

テレビでもよく耳にしますよね。

私はこれ、誤用だと思っています。

幸が悪いって表現はないでしょう。



他にも、同い年のことを

「同級生」

と呼んだりしますよね。

 

同じ学校で、クラスメイトなのか?ってツッコミたくなります。

 

インタビューなどで、

「勇気を与えたい」

という人がいますよね。

何様だと。与えられる立場なのかと。

言う人によっては、ありかも知れませんが。

 

他にも・・・


やめときましょう。

私は変な日本語だと思っているのですが市民権を得ている表現が増えてますよね。

 

誤用が広まれば誤用でなくなる。
日本語は変わっていくという専門家の言葉があります。

ある程度は納得できるのですがどうにも理解できない表現が多々あるのです。
それを言う人が信頼できないとかそれぞれ指摘してマウントをとるとかそういうのではありません。
ただ自分はそのような日本語を使わないようにしよう。
そう思うだけです。

 

 

さて。ここまでの内容を読んでいただいた方は、そろそろタイトルの意味に気づいてくださっているでしょう。

あえて読点を多めに使った文章と、全く使わない文章を描いてみました。
どちらの方が読みやすかったでしょうか?

これまで10個ほど記事を書いてきましたが、読点が多いなと感じることが多々ありました。
気をつけてはいますがそれでも不自然に感じています。


上記二通り書いてみて、私は読点が少ない方が読みやすさを感じています。

一般的には読点があることで読みやすさを作っているものだと認識しているのですが、私が意識しすぎているのでしょうね。

 

今まではなんのことは無かったのですが、校正のため読み直すと「読点はここであっているのか?」「ここは一度句点をつけた方がいいのでは無いか?」

気になってしょうがないです。



ここまで書いてみて、やっぱり読点が無い方が読みやすいです。
なんというか「、」に幼さを感じているのかもしれません。

この感情をなんとか説明できれば私の理解が進むのですが・・・今の私ではここまでです。

 

同じような感覚の人いると思います。
ぜひコメントください。謎を解き明かしたいです。